「お疲れさま」
私はそう言って店の後片付けをしている後輩を尻目に店を後にした。次々と別れの挨拶とお辞儀をしていくスタッフ、私はそれらの挨拶に軽く手を挙げて答える。最近は人数が多すぎて挨拶が面倒だ。
人気女性雑誌の取材を受けてから急激に客足が増えた、だからスタッフを増やしたのだ。
そして私の店が載った特集の題名がこれ
『この夏モテ髪にしてくれる美容院はココだ!!これで今年はいただき!』
…反吐がでる。
おかげで似合いもしないのに人気モデルの髪型を真似ている女や髪がパサパサな女、ここに来て散髪してもらえれば絶対にモテると信じて疑わない女…そんな客ばかり来るようになってしまった。そんな女と髪型では私の欲望は満たされない、私がこの店を開店したのも自分の欲望を満たすためであって、別に『モテ髪』をつくるためではないのだ。
その時、頭に『閉店』という言葉がよぎった。閉店。その可能性を否定も肯定もできないまま私は駅へと急いだ。
駅に着き、人もまばらな電車に乗り、席につくとすぐに私はウトウトとし始めた。
「最近休みなんてなかったからな」
そう独り言を言い終わるやいなや、深い眠りについた。
どれほど寝ていたのだろう、ふと気が付くと電車内には自分と向かいに座る一人の女性しか乗っていなかった。その女性も眠っている。
周りの景色からみるに寝過ごしてはいないようだったので、再び眠りにつこうとした。しかし職業病だろうか、片方だけ目を薄く開けてその女性の髪とルックスなどを観察してしまった。その時は本当におおまかに観察しようしただけだったのだ。
しかし私の半分眠っていた脳はみるみる覚醒し、双眸は猫科の動物のように拡大した。
手のひらには興奮のあまり汗をかき、指先が細かく震えた。なぜなら彼女の髪はまさに二十年間私が求めている髪そのものだったのだ。
髪は黒曜石のように黒く真っ直ぐで、淡い光をたたえていた。純粋な黒。なんのまじりっけもない黒。
もちろんそれだけではない。髪型も嫌味の無いセミロングで、彼女の魅力を数倍引き上げていた。
別に彼女が絶世の美女だったわけではない、むしろ少し個性的な顔とでもいったほうがいいぐらいだ。
少々目が離れているし、ソバカスも目立つ。
しかし少し目の離れた顔と質素なその髪型が絶妙に合っていて、お互いの魅力を損なわないどころか引き出しあっている。店に来るような客は絶対に持っていない髪。なんて魅力的な髪なんだろう。陳腐な表現だが、見ているだけで吸い込まれそうだ。
私は直感的に思った。
「あの髪が欲しい、なんとしてでも」
三十八年生きていてここまで強い欲求は初めてだった。憧れの女の子と付き合いたいという高校生の頃の欲望、
親に反対されたがどうしても美容師専門学校に行きたいという欲望、見習いの頃抱いた自分の店を持つという欲望、客に『なんでもいいんでモテる様な髪型にして』
と言われた時に抱いたその女をおもいっきり殴ってやりたいという欲望、
それらの欲望をすべて合わせても目の前の黒髪を手に入れたいという欲望には到底かなわない。足元にも及ばないといっても過言ではなかった。
私が黒髪に異常に魅かれ始めたのは中学生の頃だった。周りが性に目覚め女性を求め始めた時、私も女性を求め始めた。いや、正確に言うならば女性のある部分に異常に
魅かれたのだ。
それは流れるような黒髪である。私は女性の体にではなく、黒髪に情熱を感じるようになっていたのだ。
最初にそれを感じた時、周りとはあまりに違う異常な性癖に私は戦慄し苦悩した。だが年月が経つにつれて私の中の「諦め」が周りとの疎外感を消し去り、
美容師という自然に髪と触れ合える職業に就いてからは安心してその異常な性癖を隠すことができた。同時に理想の黒髪を悠々と探せるようにもなったわけだ。
だが理想の黒髪はなかなか見つからなかった。若人は自らの髪を茶色く染め、熱をかけて髪を曲げた。私は半ば諦めかけていたのだ。
だが今私の目の前には『人生の到達点』が座っている、静かな寝息を立てて。私はいつの間にか呟いていた
「欲しい」
その欲求のせいで口はカラカラに渇き、唇も酷く乾燥していた。
私は自然とカバンから商売道具である鋏をとりだし、フラフラと女性のもとへと歩いていた。
視線が髪に釘付けになっているのと、電車の揺れで何度も転びそうになりながら近づいていく。なおも女性は眠っている。
女性の目の前までたどり着いた、相変わらず静かに寝息をたてている、それにあわせて髪も微かに上下
している。
私は静かに鋏を開く、刀身が蛍光灯の光を反射して無機質に光っている。
乾いた唇を湿らせるように舌なめずりして静かに呟く
「もう少し」
微かに震える鋏の先端が黒髪に触れようとした時、彼女の睫が少し震えた
二本の指で髪を優しく挟み、鋏が十二センチばかりの髪をまさに切り取ろうとした時、彼女は目を覚ました。
私は驚き、鋏を握る右手に思わず力が入った。同時に切り取られた髪が私の左手に移る。
その直後背後の電車のドアが開き、私は外に脱兎のごとく走り出た。電車から絹を裂いたような悲鳴が聞こえた。
私は改札を無視して駅の外へ走り出た、後ろから駅員の怒声が聞こえる。
切り取った黒髪の香りを嗅ぎながら私は感動に打ち震えた、なぜだか後ろからまた悲鳴が聞こえた。なおも私は走り続ける。
やった!やったぞ!!ついに……ついに手に入れたんだ!私の…私の愛しい黒
記憶がはっきりしているのはそこまでだ。視界の端で逃げるように走り去るトラックが見える、右手がねじれてあらぬ角度で指が天を指している。
背中が燃えるように熱い、いやこれは痛いというのだろうか。体の自由が利かない、足の先すらも動かせない。足のつま先が地面に向いている。
喉の奥から熱い液体がこみ上げ、口から溢れる…血?遠くから人が近づいている、ある人は口を手で押さえ、またある人は携帯電話で必死にどこかへ電話している。
狭まりゆく視界で私は必死で左手を見る。
依然として左手はあの黒髪をしっかりと握り締めている。もう視界は黒く塗りつぶされた。意識がだんだん遠くなっていく。気力を振り絞っていいかけた言葉を言う。
私の愛しい黒髪よ
―了―